令和元年『謝楽祭』俳句募集総評

令和元年『謝楽祭』俳句募集総評

『謝楽祭』俳句募集総評

謝楽祭実行委会
選句
林家正雀、金原亭世之介、大瀬うたじ、柳家かゑる

第五回「謝楽祭」俳句募集ご応募ありがとうございました。投句数三百句余りの作品が集まりました。今年も選句は無記名句を投票し票の多かった句を討議し「天」「地」「人」「佳作」を決めました。今回も票が割れ選句には苦労いたしました。兼題「新蕎麦」は秋の季語です。単なる蕎麦ではない、初秋を感じさせてくれる句に苦労された方も多かったようです。「太鼓」は寄席に生きる芸人にとっては一番太鼓に始まり二番、中入りそしてお囃子の太鼓、追い出し太鼓に終わる毎日の身近なものですから、投句もその辺りを狙った作品が多かったようです。「秋の虫」は大きく秋の虫全般を詠んで頂いたので良句も多く選句には苦労いたしました。また第五回と言う事で毎年参加して頂く方も多くなって参りました。中々賞に及ばない方もいると思いますが来年も「謝楽祭俳句」の募集をいたしますので是非腕を御磨きいただきご健吟下さいませ。俳句が落語や寄席演芸への興味の入り口になって頂ければ我々も幸いです。是非来年も芸人だからこそ心動かされる作品をお待ちいたしております。

今回は「新蕎麦」「太鼓」「秋の虫」各兼題に
「天」一句
「地」二句
「人」三句
そして全句から「佳作」十句を選ばせていただきました。

『新蕎麦』

parts_ten 新蕎麦の時そばといふ落語かな 丸亀敏邦(丸亀丸)
地の句 透き通るねぎを薬味に走り蕎麦 大下綾子
新蕎麦やわがままな父をりにけり 山本彩未
人の句 新蕎麦ののぼり途切れて峠かな 中川伸 (ハイカーしん)
新蕎麦の紙あたらしき老舗かな 川又裕一
新蕎麦や再開発の迫る街 石川昇 (凡平)

「新蕎麦」は同じ発想の句が大変多くあった兼題と成りました。やはり蕎麦と来れば落語の「時そば」や先代小さんの芸を詠んだ句が目立ちました。さて「新蕎麦」の兼題で大切なのは初秋の季節感や「蕎麦」ではなく「新蕎麦」でなければ成らない俳句の拵えです。新蕎麦を蕎麦に変えても句意が立つのでは俳句としてはまだ添削の余地があると言う事です。「天」に抜けた句は同じ発想の中で秀逸でした。時そばの落語を聴いたので新蕎麦を食べたくなったと言うような句が多い中この句の手柄は逆の発想にある事です。この句の主役は紛れもなく「新蕎麦」です。句意はこうです。新蕎麦を食べていたその喜びに夢中なときにふっと「そうだ。時そばと言う落語があったなぁ。」と思い出した。何でもない蕎麦屋での一瞬の心持の中に落語を愛する作者の詩が聞こえてきます。「新蕎麦や」とせず主役の新蕎麦を「の」と逃げて「時そばといふ落語かな」と切れ字で押さえた下五。そして中七の「といふ」が作者の柔かな思いとなってふんわりと詠まれました。紛れもなく「天」に抜けた秀句です。「地」の「透き通るねぎを薬味に走り蕎麦」は上五の「透き通る」の使い方が巧かった。「俳句は写生である」と言った正岡子規。しかしそこには作者の気持ちが宿って居なければ俳句としては存在しないのです。透き通って居るのは「葱」でもあり「走り蕎麦」でもあり、初秋の季節感でもあり、何より作者の気持でもある。暑かった夏を終へ透き通る秋を迎えた作者の気持ちが見事に詠まれています。「新蕎麦やわがままな父をりにけり」先日蕎麦屋に入ると三十人ばかりのお客様が全員オジサンでした。定年退職後にしたい事の「蕎麦打ち」も男性の上位にある願望。蕎麦と男の関係はどこか切り離せないものがあります。この句の二句一章はそんなこころを「新蕎麦」と「父」に詠み込んだ巧い句です。「わがままな父が居ます」としか言わないのに新蕎麦の為に家族の予定すらかえりみない勝手な父の様子が浮かんでくる。そしてそんなお父さんに対する作者の愛が感ぜられるのは「新蕎麦」という言葉の爽やかさです。「人」の句「新蕎麦ののぼり途切れて峠かな」新蕎麦の幟がそこかしこに並ぶ国道が目に浮かびます。長野あたりの碓氷峠でしょうか、ところが峠を越えた途端まったく「幟」が消えてしまった。「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」雪国の冒頭の一句のように山ひとつで季節さえ違う日本の風景に新蕎麦ののぼりで気が付いた作者の発見の感動が良句を生みました。「新蕎麦の紙あたらしき老舗かな」毎年「新蕎麦入りました」の文字を半紙に書く蕎麦屋の趣や主人の姿まで見えて来そうな句です。新蕎麦に対する老舗の真摯な姿勢への作者の尊敬が「老舗」の老の文字と「新」との対称に詠み込まれています。「新蕎麦や再開発の迫る街」再開発によって老舗の蕎麦屋が消えてしまうかもしれない寂しさを「新蕎麦」と「再開発」という対照的な言葉で詠まれています。お気に入りの蕎麦屋を「新蕎麦や」と上五の切れ字で表現して「迫る街」という切迫感の表現が巧いかった。この句は正雀師が推した一句でした。

『太鼓』

parts_ten 追い出し太鼓六区にかかる盆の月 伊藤恭子
地の句 夕立来て己が修羅打つ太鼓かな 河野公世
無花果の百人坊主太鼓打ち 舩津いずみ
人の句 芯打てば冷まじ今日のハネ太鼓 安藤一政
開口一番太鼓は二番三時の寄席は権太楼 伊藤由美子
(ベルガモットの木)
和太鼓やトノサマバッタの腹をうつ 新井快生

弟子入りをすると噺家はまず着物のたたみ方と「太鼓」の叩き方を習います。それは今も昔も変わらない落語の稽古より先に始まる修行です。ですから「太鼓」は噺家にとってとても身近な素材です。それだけにそこから広がるイメージをしっかり詠んだものがやはり選ばれました。「天」の句に抜けたのは「追い出し太鼓六区にかかる盆の月」他にも「追い出し太鼓」の句は沢山ありましたが、この句が他を抜いて選ばれたのは「六区」と言う浅草の街と「お盆」というはっきりとした季節の表現が見事だったからです。浅草演芸ホールのお盆と言えば毎年恒例の「住吉踊り」。亡くなった先代助六、志ん朝、圓弥と名人が受け継いできた舞台が今も続いています。お盆はご先祖が家に帰ってくる季節です。そのお盆に浅草演芸ホールの寄席がハネて表へ出る。月が出ていたのですから夜席でしょう。看板に昼席の住吉踊りそして夜のトリは正蔵の文字。名を継いでゆく芸人の魂を太鼓の音と共にお盆だからこそ感じた作者の気持ちが伝わってきます。上五を「追い出し太鼓」と七文字使い体言止めにした事がかえって印象を残しました。「地」の句「夕立来て己が修羅打つ太鼓かな」句の出来栄えは間違いなく秀句のひとつでしょう。数年前三峯神社で祝詞と太鼓の響く中突然の豪雨と雷が鳴り響いた事がありました。己の業を天に打たれているような感覚に襲われた事を思い出しました。激しい夕立と共に鳴る雷、この太鼓の響きのような音が激しい感情や争いで生きて来た私を打ち据えている。いや打ち据えてくれと言っている望みなのかもしれません。「無花果の百人坊主太鼓打ち」この句は落語「大山参り」の一場面でしょう。季語の「無花果」の使い方が巧かった。ツルっとした無花果がたわわになる様子とすっかり丸められた大勢の頭が何だかうまく表現されていて選ばれた一句です。人の句は「芯打てば冷まじ今日のハネ太鼓」太鼓は季語ではありませんが季感もある言葉のひとつです。本当は「凄まじ」としたかったところを暑さの中ぞっとするほど冷たさを感じる程のトリの芸だったと言う事でしょう。「真打ち」の語源は蝋燭を立てて喋っていた頃一番最後に上がる噺家が蝋燭の「芯を打った」事から生まれたらしい事を作者は知っているのでしょう。寄席は鈴本演芸場でしょうか、追い出し太鼓に打ち出されながらの様子が見えます。「開口一番太鼓は二番三時の寄席は権太楼」寄席の盛り上がる三時ごろの中入り。爆笑の人気噺家権太楼師匠への尊敬句を文明堂の宣伝に載せた川柳に近い滑稽句です。「たぶん他では絶対選ばれない句でしょうが、こういう句でも良いんですよと言う門扉を広げてほしい」と、うたじ先生が推した作品です。謝楽祭ならではの選句です。「和太鼓やトノサマバッタの腹をうつ」他の作品には全くなかった不思議な句で何か引かれた作品でした。金子兜太の句に「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」と言う名句がありますが、この句にも類似した匂いが存在します。能のバックに流れる鼓やおおかわの和太鼓の音はどこか神秘な響きが確かにある。考えるうちにふと落語「初音の鼓」を思い浮かべた一句です。

『秋の虫』

parts_ten 特養の部屋は一階虫の声 奈良雅子(素数)
地の句 秋の虫出前落語のトリをとる 萩原正臣
蟋蟀や踏み潰してさえ鳴きにける 田中蓮
人の句 十六夜や月の恋した虫のをり 鈴木日浴
その虫は醜きけれど鈴の音 古川冬芽
ごみ捨ては俺の係か虫時雨 鈴木拓利(たくり)

「秋の虫」の「天」は、「特養の部屋は一階虫の声」「特養」は特別養護ホームです。年老いた両親や夫を抱えホームに預けていらっしゃる方も居る事と思います。私の母も今、特養にてお世話になって居ます。預ける際にはそれぞれ色々な事情や苦労や葛藤があるものです。そんな中で少しでも安らいで暮らしてくれたらと思うのは全ての家族の願いでしょう。秋に成ると虫の声が好きだった母。今は私の事すら忘れてしまった母ですが一階の部屋の庭から聞こえる虫の声を聴いて生活を送って少しでも幸せならと言う優しさの一句です。かゑるさん他私も推した一句でした。「地」の句は「秋の虫出前落語のトリをとる」近年地方の出前寄席が増えました。各地のお寺や神社での落語会のトリを終えてお客様が帰って客席をかたずけていると今まで騒がしくて気が付かなかった虫の声が聞こえて来る。大きな会場のホールと違って数十人の小さな寄席。いつかは大真打ちを夢見る若い噺家だろうか。それとも老噺家か。悲哀の中にどこか温かさを感じる芸人の胸を打つ一句です。「蟋蟀や踏み潰してさえ鳴きにける」凄い句です。一瞬踏み潰す作者の姿が頭をよぎるのですが、立ち止まって詠み込むと蟋蟀こそが作者なのだと言う事に気が付くのです。「蟋蟀」はコオロギですが昔はキリギリスの事も同じ字で表現しました。「アリとキリギリス」の蟋蟀は毎日遊んで暮らしていたと言われますが、遊びも命がけなら、それが自己の表現なのだと言っているのでしょう。落語家に例えるなら病に倒れようとも必死に高座を務める姿がこの蟋蟀の姿なのです。「人」の句です「十六夜や月の恋した虫のをり」虫は月を恋して鳴いているのではなく月が虫に恋して居ると言う表現が十五夜を越えた寂しさを上手く詠みました。「その虫は醜きけれど鈴の音」そうですよね。鈴虫や蟋蟀はどちらかと言えば気味悪い姿をしています。少し間違えればゴキブリにも似ている容姿です。でもその音色は鈴の様。人も同じで、容姿では決めつけられない美しさが隠れているものなのでしょう。「ごみ捨ては俺の係か虫時雨」一見ごみ捨ての悲哀の川柳のような句ですが「虫時雨」が寂しさよりも詠むうちにごみ捨てをしたからこそ見つけられた虫の美しい音色に癒しを感じた作者の喜びも感じるのです。下五が「虫の声」でしたらその感は無かったでしょう。「虫時雨」の手柄です。


佳作 奥多摩の川の音色や走り蕎麦 柿岡陽樹
青き日の君と啜った走り蕎麦 江俣怜
背番号なくて夏天へ打つ太鼓 小野智子(杉山ひかり)
七曲りして灯の走る虫の闇 池田秀夫(池田遊瓜)
虫の声ビル解体のシルエット 拓殖勇人(こまく)
虫時雨遠く煌々と吉原 丸岡菜々枝(七江)
そろそろと虫の音を乞う残暑かな 石川忠
法師蝉読経してをり辻地蔵 丸山喜弘
ゴッホの星負けじと光る秋蛍 北川琴音
蝗虫や祖父を背おひいて風吹きぬ 菊地真由
螻蛄鳴くわがトリセツのこれからを 河野公世

佳作は以上10作ですがもう一句、選句点の多かった作品を一番下段に佳作として加えさせて頂きました。どの句も「天」「地」「人」に劣らない作品です。選句をしなければならず仕方なく「佳作」にとどめました。ここに選ばれなかった方も選ばれた方も是非最優秀賞を目指してまたご投句下さい。
今回は本当にありがとうございました。来年も謝楽祭俳句の応援をよろしくお願いいたします。

代表評 金原亭世之介
俳号 皂角子(さいかち)
令和元年9月8日
一般社団法人 落語協会  謝楽祭実行委員会

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