2022年『謝楽祭俳句』募集 総評

2022年『謝楽祭俳句』募集 総評

『謝楽祭』俳句募集総評

謝楽祭実行委会 選句 金原亭世之介

「謝楽祭」俳句募集ご応募ありがとうございました。コロナ禍の中珠玉の作品を多数ご応募いただき本当にありがとうございました。「謝楽祭」を実現するため色々苦労もございましたが何とか実現でき、こうして謝楽祭俳句も行う事ができました。募集要項のお知らせが遅れ楽しみにしている皆様には大変ご迷惑をお掛けいたしました事お詫び申し上げます。

さておかげさまをもちまして「第八回謝楽祭俳句募集」今回の投句は短い募集期間としては多大な百五十句余りの作品が集まりました。その中から各兼題「天」一句「地」二句「人」三句と全体から「佳作」を選句させて頂きました。毎年のことながら選句はひと苦労でありした。今回の兼題は「悋気」「蛙」「幽霊」。「悋気」は落語の中には良く出て来る言葉です。一般社会では「嫉妬」などと使われていますが少しニュアンスが違います。落語好きの方には理解できると思ったのですが、かえって難しく考えさせてしまったかもしれません。「幽霊」も落語によく出る演題。「蛙」は名句が多すぎて落語と繋げようと奇をてらってしまって俳句を崩してしまった方がいたように感ぜられます。先ずは素直に句を詠むところから始められると良いでしょう。また俳句の基礎さえ教われば名句へ育つ作品が沢山あって残念な思いが目立ったのも今回でした。以前個人的にでも俳句ワークショップを開ければなどと企画いたしておりましたが、是非コロナが沈静した暁には実現したいと思っています。ご期待ください。これからも「謝楽祭俳句」が寄席や落語そして俳句への興味の入り口になってくだされば幸いです。どうぞコロナに気を付けつつ来年も寄席芸人たちを唸らせる作品のご応募お待ちいたしております。

 

今回は「悋気」「蛙」「幽霊」各兼題に

「天」一句

「地」二句

「人」三句

そして全句から「佳作」十句を選ばせていただきました。

『悋気』

parts_ten 悋気立つ姉を鎮めたりんごあめ 野本佳志       
地の句

やきもちはここでやめとこ涼み台

清掻で悋気彩る秋話

公世(河野公世)   

克燦(松家克)    

人の句

揉の酢の利きすぎし悋気かな

雀水浴ぶ遊女たちのやきもち

夏の夜に少女嫉妬を知りにけり

川又裕一       

池田遊瓜(池田秀夫) 

言問小町(亀山久美子)

「悋気」は今の若者は使わない単語でしょうね。私も噺家になる前は落語の題名でしか認識してない言葉でした。「嫉妬」と言うと何だか軽い感じがするのですが悋気というと少し裏があって「どろッ」とした雰囲気になるのは「悋気の火の玉」や「悋気の独楽」「権助提灯」などの落語を聴き過ぎたせいかもしれません。ただ嫉妬は男女関係なく使われる言葉ですが、「悋気」は元々女が持つ嫉妬心の事で、ことわざにも「悋気は女の七つ道具」などと言われています。嫉妬心は相手の優れた部分に感じるものですが悋気には全くそれが無いと言うところが生々しいんですね。さてその中で「天」に抜けた「悋気立つ」の句は「悋気」をカラッと表現したところが手柄です。他の句にない爽やかさがこの句には在りました。そして一つ一つ言葉にしっかり意味を持たせて詠んでいる巧みさ。これには唸りました。まず「悋気立つ」がいい。苛立つとか風立つとか「立つ」と言う表現には見えないものが見えて来ると言う意味があります。そして姉と言う表現から作者は近親者、それも弟とか妹を思わせてくれる。そこに「りんごあめ」の平仮名使い。配信発表の際は印刷に「漢字」で出してありましたが投句は「平仮名」でした。本来俳句では名詞を書く時には漢字を用いる決まりがある為の誤記でした。申し訳ありません。平仮名にする事で柔らかさが表現されていました。「林檎飴」ではこの姉の若さを感じさせるには少し難しいが平仮名によって稚拙さが感じさせられるのです。またりんご飴が夏から秋の祭りの季節を実にうまく表現しているし、赤と言う表現は使わずに悋気の赤さ、そして祭りの赤い雰囲気、綺麗な浴衣柄迄浮かんでくる。素晴らしい句ですね。私的な句感はこうです。十代の姉が祭りに弟の作者と来ているのに、恋していた男の子が他の女性といるのを見てしまった。その悋気は、はたで見ていてもわかるほど。でも大好きな林檎飴をカリッと齧ってその甘酸っぱさにすっと姉の気持ちが収まったようだった。生まれた時から女は悋気を携えているけど恋より食い気もまた一理。幼な心に作者は女の悋気を垣間見たのですと言ったところでしょう。文句なく「天」に抜けました。

「地」の「やきもち」の句、これもまた平仮名表現の面白さです。嫉妬や悋気と漢字を使わず「やきもちはここでやめとこ」と喋り言葉として年齢を現した。つまり「やめとこ」はつぶやきなのです。独り言と感じて貰っても良いですね。あまり若者は使わない表現で上句を詠んで季語に「涼み台」を使い、体言止めで二句一章に仕立て上げました。俳句では「季語が動かない」と言う誉め言葉がありますが実にうまい季語表現です。皆さん本当に上手いですね。長年一緒に暮らした夫婦でしょうか、ちょっとしたやきもちからプイっと外の縁台へ飛び出した。しばらく涼んでいたら気持ちも収まったのでしょう。「さて家に戻るか」落語の「厩火事」の日常はこんな感じで過ごされているんでしょう。そして収まらない時には兄貴分の所に行って愚痴を言ってあの落語の場面へ続くのではないでしょうか。何だか落語の一場面を見ているようでふんわりした気分にしてくれました。

続いて「清掻で」の句です。中七の悋気を彩ると言う表現が上手いですね。彩るものではない悋気で読者を引き込んで、下五の「秋話」でああ落語なのか?とか「芝居」なのか?となる。清掻(すががき)は江戸時代吉原で遊女が張見世に出る時に弾く三味線の曲で歌舞伎の下座音楽で遊里の場面をあらわす三味線の合奏などにも使われます。この言葉一つで吉原や遊里を想像させて遊女たちの悋気を彩るとは巧いですね。「秋話」は「老人の口の端」か?いや多分落語のネタなのでしょう。「五人まわし」「文違い」。それとも品川で「居残り」とか色々想像させてくれる句でした。 

「人」の句です

まず「瓜揉み」の句。やきもちは狐色。ありがちな表現ではあります。同じスチエーションの句がいくつか在りましたがこの句が一番すっきりしていました。晩酌のお猪口を口に運び瓜揉みを一口。思わず「酢っぱい」いつも食べているかみさんの瓜揉みの酢が利きすぎてる。そうかさっきの夫婦喧嘩のせいかと気づいた。こんな感じでしょうか。思わず台所でまだ夕飯の支度途中の奥さんが見える一句でした。

「雀水浴ぶ」は上七下十の二句一章。雀の水浴から始まる物語です。格子越しに部屋の窓から見える雀の行水。普通に生きる人にとっては単なる日常ですが籠の鳥と言われる遊女たちにはなんと憧れな嫉妬心を持つ光景なのでしょう。自由を奪われる事ほど切ないことはありません。私の俳句の師である角川春樹がこんな句を詠んでいます。「そこにあるすすきが遠し檻の中」角川が留置されて居た時に詠んだ名句です。子規の歌にも「瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり」藤の花に例えた子規の床での生活が哀しく伝わります。この歌の「みじかければ」と五音の表現をわざと六音にした字余りの印象が巧みな表現なのですが、揚句も七と十での表現で二句一章にした作者の巧みさに感心しました。落語「文違い」の階段の窓から芳次郎を見送る新宿の女郎お杉の気持ちでこの句を読むと尚更哀しさが味わえるのではないでしょうか。ではなぜ「人」に留まったのかは、俳句は自己の表現であると私は思っています。この句の残念さは作者が句の第三者であるところです。ここに作者の存在があれば「天」「地」に抜ける句でした。

「夏の夜に」の句です。悋気を知ったのはいつだったのか作者は考えたのでしょう。それは青春期そして夏だった。それを素直に詠んだ句ですね。「天」の句は一つの出来事の一瞬を切り抜いた句で、この句は大きく悋気を詠んだ作品です。作者の人生感の句ですが男である私も自分の若かりし頃のつきあった女性を思い出してしまうような心持になりました。春に恋をして夏に実るか、それとも恋破れ、秋に寂しさと同居するのか。どちらに転んでも嫉妬心を沢山経験するのでしょう。若い時はその繰り返しだった気がします。「俳諧は三尺の童にさせよ」と俳聖芭蕉は言いました。素直に勝る句はありませんね。

『蛙』

parts_ten それぞれに赤青黄の蛙かな 丸亀丸(丸亀敏邦)  
地の句

花柄のがま口財布君に似て

革靴に残る重さや青蛙

我妻青依       

ハイカーしん(中川伸)

人の句

棚田にはビッグバンドのジャズ蛙

受話器から母の小言と遠蛙

容赦なき三面鏡やがまがへる

明叟(柳澤明)    

とえ(松元えりこ)  

素数(奈良雅子)   

「蛙」は俳句の素材としてはあまりに身近過ぎてかえって難しくなってしまったかもしれません。その中で「天」に抜けたのは「それぞれに赤青黄」の句です。俳句は文字が出来た時からずっと詠まれ続けて居ますから、宇宙規模の数が存在しています。ですからどこかで逢った事のある句や似ている句が沢山あるのです。知らず知らずにそんな句を詠んでしまっていることもあれば、大好きな句をリスペクトしてそのニュアンスを詠むこともあるのです。それも良いことだと思いますが、やはり常識を打ち破った手つかずの発見を詠んだ句には俳人として感動し尊敬してしまうものです。さて「天」の句はまさにそれです。「蛙」は何色?と聞けば、たいがいは緑色と答えるはずです。でも「蛙」は矢の先に塗る毒を取るヤドクガエルのように真赤や緑ではない青い蛙もいるし真黄色の蛙もいるのです。それを発見し俳句に詠んだ勇気と挑戦が素晴らしいです。勿論俳句の背景もしっかりしています。動物を句に詠んだときは自分の例えであると思って下さい。この句の蛙は人、そう人間です。「皆同じじゃないそれぞれ違っていて良いんだよ。」と言うメッセージなのです。噺家に例えるならどんな芸でも良い。人と違うことが素敵なことなのです。蛙も人間もいや生き物全て森羅万象に至るまで皆それぞれで良い。と言うのがこの句の背景なのです。きっと作者は分かってもらえないかもしれないと投句したかもしれませんが「天」に抜けました。芥川龍之介の「青蛙おのれもペンキ塗たてか」を彷彿させる句だと思います。

「地」の句です

「花柄のがま口」とすでに蛙から少し離れて俳句が始まるところが巧いですね。花柄から君は女性と予想がつきます。その持ち主であろう女性にこともあろうにがま口に似てると言うのです。でも全く悪口に聞こえない、どちらかと言えばほほえましく感じるのは私だけではないでしょう。大きな口は屈託のない笑い顔を想像するからです。「蛙」自体から離れた表現で句を詠みあげたことが上手いですね。滑稽句は難しいものですが見事に「地」に選ばれました。

「革靴に残る重さや」の句はふとすると選び損ねてしまいそうな句です。「革靴に残る重さや」と「青蛙」の二句一章の繫がりが直ぐには見つからないからです。その反面俳句は推理小説のように謎解きができた時の感動はとても大きいのです。芭蕉の弟子宝井其角の句などはそういった句が多く令和の今でも沢山のファンがいて私も好きな俳人の一人です。さて句意はこんな感じでしょうか。履いている靴に青蛙が乗っていたのでしょうぴょんと跳ねた蛙。ふと足が軽くなった。こんな蛙でも以外に重さが在るものなんだなあ。そういえば子供達も我が家から巣立って行ったがいつまでも子供と思っていたのがいつの間にか重みのある人間になっていたんだな。これは青蛙だから子供と感じるのです。これがガマガエルじゃ子には感じないしトノサマガエルでは偉そうです。アカガエルでも違う。あの可愛らしい青蛙だからそう感じるのです。そして働く父のイメージは革靴です。この二つに絞って重さと言う感覚で名詞を繋ぎ二句一章とした巧い句です。作者の子は就職をし、手を離れ、女の子なら嫁に行ったのかもしれません。

「人」の句です

「棚田には」はまさに楽しい句です。この句の巧さは「棚田」と「ビッグバンドのジャズ」の取り合わせです。おもわず昭和を感じさせる作品です。終戦と共に進駐軍がもたらしたジャズブーム。有楽町や赤坂、歌舞伎町にはダンスホールが何軒もできてビッグバンドが演奏する音楽で歌手は歌い若者はホールで踊りまくったのです。管楽器がメインのビックバンドはひな壇に並んで演奏していました。これを棚田に例えたのです。もちろん蛙たちはその頃の若者で在りバンドメンバーなのです。石原裕次郎、小林旭。蛙の句なのに思わず浅丘ルリ子を思い浮かべました。

「受話器から」の句は故郷を離れ都会に暮らす若者を詠んだ句です。いやっもしかしたらこの作者はすでに中年かもしれないと句を味わううちに感じました。親にとってはいつまでも子供は子供です。親が七十代になって子が四十代でも母親にとって子は子。いつものように同じ小言を繰り返す母。生返事をしながら耳を澄ましたら蛙の鳴き声が遠く小さく受話器から聞こえてきた。子供の頃の故郷が蘇り、また母の優しさを思い直す作者の優しさが感じられます。蛙は「蛙が鳴くから帰ろ」の言葉どおり、夕方から夜に鳴きはじめます。昼の喧騒から静かになった都会と故郷が電話と言う媒介で繋がる一夜の場面がとてもやさしく感ぜられる一句です。

「容赦なき」は自虐俳句とでも言いますか、思わず笑ってしまう一句です。人は誰でも写す角度で少しは痩せて見えたり綺麗に見えるものです。しかし三面鏡で攻められては隠しようがない。どこかに本物の姿が写ってしまう。それがガマガエルだと言うんですから。思わず悲鳴ですね。噺家なら三面鏡とガマガエルとくれば落語「蝦蟇の油」を思い出さずにはいられません。作者が脂汗をタラーリタラーリと流している姿を想像してしまいます。作者の謙遜の句でしょうが楽しい一句となりました。

『幽霊』

parts_ten 描霊のふらっと帰る盆の夜 大久保奏人    
地の句

幽霊や量子の揺れに宙が座す

幽霊のひとり混ざりし夏合宿

石井奈津希    

たくり(鈴木拓利)

人の句

幽霊の汗拭いたる前座かな

木の葉髪果てはお化けのQ太郎

踏みはづすお化け階段けふの月

とえ(松元えりこ)

凡平(石川昇)  

川又しのぶ    

「幽霊」は夏の寄席には付き物の演題ですから落語に寄り添っての俳句を仕立てるのは難しかったかもしれません。募集の際に落語を意識させてしまったのでこだわり過ぎて俳句を壊してしまった作品が目立ちました。「天」の句は落語とは関係ない句が抜けました。

「猫霊の」は雄猫の生活感を霊に例えて詠んだ句で「猫の恋」で詠まれる句としては良くある風景です。しかし猫を霊として詠んだ句に出会ったのは初めてです。猫の霊としただけでげっそりとした猫があっという間に想像できて中七の「ふらっと帰る」が死んでも尚変わらぬ猫の性格を感じさせます。下五の「盆の夜」で猫も家族の一員だったという作者の優しさも感じます。猫の霊はお盆の夜にふらっと故郷に帰って来た作者の例えでもあるかもしれません。上五を「猫の霊」と体言止めにせず「猫霊の」とした事によって三句切れにさせない努力も句を学んでいる作者の上手さです。

「地」の句

「幽霊や」の句の「量子の揺れ」という型にはまらない表現にすっかりやられました。昔夏になると霊の存在を否定する科学者と肯定する人たちの論議を良くテレビで見ましたが、作者は幽霊の存在は「量子の揺れ」と位置付けてそれを俳句に仕立て上げています。そして「宙に座す」とソラと言う字を宇宙の宙を使い詠みました。そう言えば幽霊の存在を語る人は宇宙人の存在も肯定しがちだなと、なんとなく繋がってゆく俳句感に不思議な納得を覚えました。日頃から作者はそんな事を考えていて詠んだのか、たまたま思いついて詠んだのか聞いてみたくなる作品でした。

「幽霊のひとり混ざりし」は前句と真反対の世界観ですね。学生時代の多感期にある夏の林間学校や臨海学校、そして夏合宿。夜ともなれば必ずある肝試しや百物語の怪談噺。たいがいは面白おかしく終わる学校行事ですが、新学期が始まり合宿の集合写真を見ると知らない顔がひとり写真に写っている。手の数が合わない写真など誰もが経験した青春が楽しく詠まれています。江戸時代は座敷童なんて妖怪がいて逢えると幸せになれるなんて話が今でも東北の宿には残っているらしいです。少し川柳によった句かもしれません。

「人」の句

「幽霊の汗」は兼題「蛙」でも「人」に抜けた作者の句です。怪談噺で幽霊を演じる前座を詠んだ作品が多くありましたが、生き生きと働く前座が見えるこの句がやはり一番でした。圓朝が牡丹灯籠で足の無い幽霊に下駄を履かせ「カランコロン」と歩かせた秀逸さは言うまでもありませんが、汗をかかない幽霊があえて汗をぬぐうその姿は滑稽ではありますがとても懸命で舞台から帰って来た若い前座の姿が目の前に見えて心地よく感じました。

「木の葉髪」は挑戦的な句です。「木の葉髪」という晩秋から冬の季語を使って「果てはお化けのQ太郎」と言う夏の季語の句作り。このアバンギャルドをどう評価するかを悩んだ一句です。「木の葉髪」を使った鈴木真砂女の句が在ります「そのむかし恋の髪いま木の葉髪」恋に身を投じた昔の黒髪も今はすっかり抜け落ちてこんな木の葉髪になってしまった。という句です。挙句は季語が語るこの哀しさを逆手にとっていまはお化けのQ太郎で〆ている。 藤子不二雄のお化けのQ太郎は若い人には分からいないかもしれませんが戦後生まれの中年以上の方なら皆知っているキャラクターです。「頭のてっぺんに毛が三本」と言う可愛いお化けで一世を風靡したアニメのキャラクターです。結論から言うと何度も読み返して「人」に選びました。この句は「木の葉髪」の季語の哀しさを一周させ夏のお化けと言う季語に戻って来て「哀しむな。毛が無くたった新たな笑いがまた訪れるんだ」と言う人生の応援歌と理解しました。

「踏みはづす」は下五の「けふの月」が季語です。「お化け階段」は多分日暮里駅から谷中ギンザ商店街に降りる「夕焼け段々」の事でしょう。私は先代馬生の弟子でしたから毎日この階段を使っていました。志ん生も馬生もこの階段を使かったんですよ。「お化け階段」は降りる時と昇る時段の数が違ったのがその由来です。段々が崩れている処もあってよく躓きました。この句はお化け階段を思わず踏み外してしまった作者が、これはお化けのせいでは無くて月があまりに綺麗だったから見とれていただけ。という俳句らしく詠んだ作品です。「おばけ階段」という滑稽な呼び名の使い方が平凡になりがちな俳句を良句に育てあげました。上手い句です。


佳作 手の中の蛙温か帰路走る まゆ(門野真優子)
美し悪友に悋気抱く盆芝居

鹿澄(望月和美)

来ぬ人に三味の音色と夕蛙 鯉女(張本瑞江)
猛暑日の悋気の独楽は果てしなく 田中真穂
短夜のなお募りたる悋気かな 純子(江村純子)
へっついも長屋も井戸も幽霊も 浅野俊治
悋気さえ無線で飛ばす令和夏 井上治子
幽霊の正体見せる落語かな 伊澤正孝
花嫁の父の悋気や夏の雲 駒久(柘植勇人)
河鹿ナク沢辺にネムル水車小屋 ろうきゅう(大家朗久)

以上佳作十作です。次回は是非最優秀賞「天」を目指してご健吟下さいませ。また来年も謝楽祭俳句行う予定です。応援よろしくお願いいたします。

句評 金原亭世之介
俳号 皂角子(さいかち)

令和4年9月4日
一般社団法人落語協会 謝楽祭実行委員会

 

今年も「俳句」の募集をいたします

各賞受賞は謝楽祭当日落語協会の配信にて発表

懸賞:橘右楽師匠の作者名の一文字色紙 賞状 他

俳句兼題:「悋気」(やきもち)「蛙」「幽霊」

募集要項:住所、氏名、ペンネーム・俳号、年齢、電話番号、メールアドレス

募集〆切:8月20日必着、投句無料、メールまたは郵送にて

メール募集: sharakusai-haiku@kingpro.co.jp

郵送募集:〒110-0005東京都台東区上野1-9-5

     一般社団法人落語協会謝楽祭「俳句」係

注意

「悋気」は季語ではないので季語を入れること。「やきもち」でも良い。「蛙」は雨蛙など名前でも良し「幽霊」はお化けや妖怪の名前でも良い。落語界ならではの秀句を期待します

選者 金原亭世之介

※令和4年度の謝楽祭俳句募集は終了致しました。沢山のご応募誠にありがとうございます。

51.5M