協会概要

一般社団法人落語協会

名称 一般社団法人落語協会
所在地・連絡先 住所 〒110-0005 東京都台東区上野1-9-5    交通アクセス
TEL:03-3833-8563
FAX:03-3833-8599
業務内容
  • 古典落語を中心とした寄席公演の企画及び開催
  • 創作落語の研究及び発表
  • 寄席芸能に関する後進の育成
  • 下座音楽実演家の育成
  • 学校、職場等における寄席芸能の普及支援
  • 落語家の昇進資格の認定
  • 芸能関係団体との連絡提携
  • 寄席芸能に関する調査研究及び資料文献の収集保存
  • 寄席芸能に関する刊行物等の発行
  • 寄席芸能に関する各種物品等の企画及び販売
  • その他この法人の目的を達成するために必要な事業
  • 一般社団法人落語協会定款より、抜粋
役員

当期役員(任期:令和4年6月29日より2年間)

会長 柳亭市馬
副会長 林家正蔵
常任理事

柳家小さん・柳家さん喬・入船亭扇遊・林家たい平・

柳家喬太郎

理事

金原亭馬生・三遊亭歌る多・三遊亭吉窓・

五明樓玉の輔・林家彦いち・古今亭菊之丞・

桃月庵白酒・柳家三三・宝井琴調・立花家橘之助

監事 夢月亭清麿
外部監事 平川茂(税理士)
最高顧問 鈴々舎馬風
外部顧問 寺脇研(京都造形芸術大学 理事)
相談役

桂文楽・林家木久扇・柳家さん八・柳家権太楼・

古今亭志ん輔

前史  職業的な落語家と寄席の始まりは、寛政十(1798)年、下谷稲荷社内で初代三笑亭可楽が打った興行を、その祖とする説が有力である。以後、明治維新を迎えるまでの70年間に、江戸の町に寄席の数は百七十軒以上を数えるようになり、落語家の数も増えていった。
明治8年、三代目麗々亭柳橋を「頭取」とし、「補佐」に三遊亭圓朝と六代目桂文治らがつき「落語睦連」を結成するが、明治20年代になると「柳派」「三遊派」の二大派閥にほぼ大別されるようになった。各席を半月ごと(当時は15日間ずつ、上席・下席として興行を打っていた)に、交替で勤める興行形態が整い、それが大正時代まで続くことになる。大正6年8月、柳派と三遊派が合併し、四代目橘家円蔵、初代三遊亭圓右、三代目柳家小さんらが中心となって「東京寄席演芸株式会社」を創設し、月給制を取り入れる。
ところが同月下席、同会社に所属した五代目柳亭左楽が脱退し、四代目春風亭柳枝らと共に「落語睦会(三遊柳連睦会)」を旗揚げした。
以後、この両者が二大団体となるが、小さな離合集散を繰り返すことになる。詳しくはとても書ききれないくらいの、脱退、旗揚げ、合併、解散、復帰などが繰り返された。噺家という人種の気性を、現している現象と言えるかもしれない。大正12年10月関東大震災の後に、五代目柳亭左楽が奔走した結果、大同団結し「東京落語協会」を設立する。これが現在の一般社団法人落語協会のルーツとなる。
しかし、翌13年6月には、またまた分裂。旧睦会が独立し「東京落語睦会」として復活する。その後も、両会派はさらに小さな分裂や解散を繰り返す。その団体名を挙げるだけでも「落語演芸東西会」「柳三遊研成社」「日本演芸協会」「東京演芸組合」「三語楼協会」「金語楼一座」「東京落語組合」など、正確に把握する事さえ困難なありさまである。
昭和5年、六代目春風亭柳橋と柳家金語楼が「日本芸術協会」を創設する。これが現在の公益社団法人落語芸術協会の母体である。
沿革  昭和15年5月、第二次世界大戦への突入を前にして、新興行取締り規則の改正により、演芸界は警視庁統括のもとで「講談落語協会」として統一させられる。すべての落語家は否応もなく、この協会に所属することになる。会長は、人格者であり名人と謳われた講談の六代目一龍斎貞山が務めた。
昭和20年終戦後、官主導の「講談落語協会」は解散し、元の形態である「東京落語協会」と「日本芸術協会」の二団体に戻る。
「東京落語協会」は昭和21年10月、四代目柳家小さんが会長に就任。「落語協会」として新発足する。以後会長は、22年に八代目桂文治。30年・八代目桂文楽。32年・五代目古今亭志ん生。38年・再度桂文楽。昭和40年・六代目三遊亭圓生が歴任した。
昭和47年に、五代目柳家小さんが会長に就任すると、次々に近代化をはかっていった。若手の理事を登用。合議制を導入する。また、任意団体として上野黒門町に事務所を構え、公益法人化に向けて活動を開始した。
昭和52年12月、文化庁を主務官庁として、社団法人の認可を受ける 。以降、正式な名称は、社団法人落語協会となる。
昭和53年5月、六代目三遊亭圓生が中心となり、七代目橘家円蔵、三代目古今亭志ん朝、五代目月の家円鏡らが脱退し、「三遊協会」を創設。ただしその直後に、圓生直系の一門以外、すなわち円蔵、志ん朝らは全員落語協会に復帰する。結局は、三遊亭圓生とその一門だけが落語協会を脱退した。同年、十代目金原亭馬生が副会長に就任。
昭和54年圓生没後、五代目円楽の一門を除いて、六代目圓窓、圓弥、生之助、圓丈らが落語協会に復帰する。「三遊協会」は円楽一門だけとなり、その後「大日本すみれ会」から「圓楽党」と名称を変更し、現在に至っている。昭和57年、馬生没後、六代目蝶花楼馬楽が副会長に就任する。同年、立川談志が弟子一同を引き連れて脱退。「立川流」を創始する。
昭和62年、馬楽没後、三代目三遊亭圓歌が副会長に就任。
平成7年5月、落語家として史上初めて柳家小さんが、重要無形文化財(人間国宝)に認定される。翌年、平成8年8月、小さんは24年間勤めた会長職を勇退し、三遊亭圓歌が会長に就任。同時に古今亭志ん朝が副会長になる。小さんは、最高顧問。
平成13年10月、志ん朝没後、五代目鈴々舎馬風が副会長に就任。平成14年5月、柳家小さん死去。平成18年6月、三遊亭圓歌が10年間勤めた会長職を勇退し、鈴々舎馬風が会長に就任。平成22年6月、二期4年間勤めた鈴々舎馬風が勇退。柳家小三治が会長に就任。平成24年6月、役員改選にともない小三治会長再選。柳亭市馬を副会長に選出。平成24年8月、一般社団法人となる。平成26年6月、柳家小三治が勇退。柳亭市馬が会長、林家正蔵が副会長に就任。 

現在に至る。

 

参考文献:古今東西落語家事典(平凡社・諸芸懇話会)

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